本項では、明治から昭和(第二次世界大戦終戦まで)までの、近代の社会福祉の歴史についてまとめます。保育士試験では、人物名と施設の組み合わせがよく出題されます。
また、社会福祉に関連する法整備が始まる時代でもあります。戦争などの時代背景を踏まえて、どのような法律が制定され、現代ではどうなっているのかを把握しましょう。
- 明治の社会福祉
- 大正の社会福祉
- 昭和(第二次世界大戦終戦まで)の社会福祉
社会福祉とは
社会保障制度に関する勧告(50年勧告)によると、「社会福祉とは、国家扶助の適用をうけている者、身体障害者、児童、その他援護育成を要する者が、自立してその能力を発揮できるよう、必要な生活指導、更生補導、その他の援護育成を行うこと」とされています。
つまり社会福祉とは、何らかの理由で、自分だけでは自身の生活が維持できない場合に、国や地方自治体などが自立を支援していくことです。

日本における社会福祉の歴史
日本の時代区分は、以下の通りです。
| 時代区分 | 時代 |
|---|---|
| 古代 | おおむね国家形成から平安時代まで |
| 中世 | おおむね鎌倉〜室町・戦国時代まで |
| 近世 | 江戸時代 |
| 近代 | 幕末・明治維新以後から第二次世界大戦終結ごろまで |
| 現代 | 1945年以後〜現在 |
近代には明治、大正、昭和(第二次世界大戦終戦まで)が含まれます。本項では、その近代の社会福祉について掘り下げていきます。


明治の社会福祉
明治時代の社会福祉は、家族や地域の助け合いだけでは支えきれない貧困に対し、国家が少しずつ制度として関わり始めた時代です。
その中心となるのが、1874年制定の恤救規則(じゅっきゅうきそく)で、日本初の全国統一的な公的救済制度とされています。
しかしその対象は、老幼・病者・障害者などのうち、働けず、頼れる家族もいない無告の窮民に限定されていました。
それでも、明治の社会福祉は、のちの救護法、さらに戦後の生活保護法へつながる出発点として重要です。
明治時代の後半には、精神障害のある人への対応も少しずつ制度化されました。1900年の精神病者監護法は、家族などが精神病者を監護する仕組みを定めた法律で、支援というより監護や管理の性格が強いものでした。
明治時代には民間では多くの社会福祉事業が行われました。代表的な民間の社会福祉事業をみると、児童保護、障害者福祉、貧困地域支援、慈善事業の全国的連携など、明治期に多様な取り組みが広がっていたことがわかります。
| 人物 | 主な取り組み | 内容・社会福祉史上の意義 |
|---|---|---|
| 高瀬真卿 | 私立予備感化院(1885) | 要保護・非行少年を対象とした感化事業の先駆け。翌年に東京感化院へ改称され、現在の児童養護施設・錦華学院の前身とされています。 |
| 石井十次 | 岡山孤児院(1887) | 日本で最初の孤児院として知られ、孤児の保護と教育を進めました。明治の児童福祉を語るうえで外せない存在です。 |
| 石井亮一 | 滝乃川学園(1891) | 日本初の知的障害児者のための福祉施設。障害のある人の尊厳と教育・生活支援を重視した点で重要です。 |
| アリス・ペティー・アダムス | 岡山博愛会(1891〜) | 花畑地区で教育・医療・生活支援を行い、日本初のセツルメントとされる実践を築きました。のちに、その事業は1910年に「岡山博愛会」としてまとめられました。 |
| 山室軍平 | 救世軍での社会事業(1895〜) | 日本の救世軍で活動し、廃娼運動や結核療養所設立など、宗教を基盤にした救済活動を進めました。 |
| 片山潜 | キングスレー館(1897) | 東京・神田三崎町でセツルメントを行った代表的な先駆例。幼稚園や夜学校、講義などを通じて地域支援を行いました。 |
| 留岡幸助 | 家庭学校(1899) | 民営の感化院として創設。家庭的な生活環境の中で立ち直りを支えるという発想が特徴で、現在の児童自立支援・児童養護にもつながります。 |
| 野口幽香・森島峰 | 二葉幼稚園(1900) | 貧困層の子どもにも教育を受ける機会を保障しようとした取り組みで、のちの保育・母子支援へ発展していきました。 |
| 渋沢栄一 | 中央慈善協会(1908) | 慈善事業を全国的につなぐ組織で、現在の全国社会福祉協議会の前身。個別の慈善を、連携ある社会事業へ発展させる節目になりました。 |
セツルメントとは、イギリスに始まる社会事業で、日本では隣保事業とも説明されます。セツルメントでは支援者が地域に入り込み、住民と近い距離で教育・医療・生活支援などを行う地域福祉の実践方法です。
大正の社会福祉
大正時代の社会福祉は、第一次世界大戦(1914〜18年)の影響を抜きにしては語れません。明治の恤救規則のような限定的な救貧から、第一次世界大戦を経て、社会問題に対して行政が本格的に向き合う時代へ進んでいきます。
1917年には軍事救護法が制定され、戦傷病者や軍人遺族、軍隊に招集されたことによって生活が苦しくなった家族への救護が制度化されました。これを契機に内務省地方局には救護課が設けられ、のちの社会課・社会局へつながる救護行政の基盤が整えられます。社会局は、現在の厚生労働省につながる前身の一つです。
一方で、大戦景気の裏では急激な物価上昇が進み、1918年には米価高騰を背景に米騒動が全国へ広がりました。こうした社会不安のなかで、地域を回って困窮者の相談に乗り、必要な支援につなぐ仕組みも重視されるようになります。
1917年の岡山県の済世(さいせい)顧問制度(笠井信一知事が創設)、1918年に大阪府で始まった方面委員制度(林市蔵知事が小河滋次郎の発案により設置)がその代表です。
方面委員制度は全国に広がり、1946年には現在の民生委員制度へと受け継がれました。
民生委員制度とは、地域住民の身近な相談役として、困りごとを抱える人を行政や福祉サービスにつなぐ制度。民生委員は、地域の実情に通じ、福祉への熱意がある住民の中から選ばれ、任期3年・無報酬で活動する。
1919年には精神病院法が制定され、精神障害者を監護するだけでなく、医療の対象として公的に対応する考え方が進みました。つまり、明治の精神病者監護法が「監護中心」なら、大正の精神病院法は「医療への転換」と考えることができます。
つまり大正時代は、戦争への対応をきっかけに福祉行政が整えられると同時に、地域で人々を支える仕組みも発展し、現代の社会福祉の土台が形づくられた時代といえます。
昭和(第二次世界大戦終戦まで)の社会福祉
昭和前期の社会福祉は、第一次世界大戦後の不況、関東大震災、昭和2年の金融恐慌、さらに世界恐慌が重なって生活困窮者が増えたことを背景に、大きく制度化が進みました。
その象徴が救護法(1929年制定)であり、恤救規則より対象や救護内容を広げ、国の救護義務を明確にした点で画期的でした。あわせて、低所得者に低利で資金を貸す公益質屋法も1927年に設けられ、生活防衛策の一つとなりました。
この時期、地域の社会福祉実務を担ったのが方面委員です。方面委員は困窮家庭を訪問し、相談、調査、援助の仲立ちを行い、救護法の運用を現場で支えました。制度は1936年の方面委員令で法的根拠を与えられ、全国的な仕組みとして整えられていきます。
また、昭和恐慌下で深刻化した児童問題に対応して、1933年には児童虐待防止法と少年教護法が成立し、虐待や不良環境から子どもを守る法整備が進みました。
1937年以降、日中戦争から第二次世界大戦へ進むと、福祉は生活困窮対策であると同時に、戦時体制を支える色彩を強めます。
1937年には母子保護法が制定され、同年、従来の軍事救護法は改正されて軍事扶助法となり、軍人やその家族への扶助が強化されました。さらに1938年には社会事業法が制定されて社会事業の組織化・監督が進み、同年の国民健康保険法は農山漁村など一般国民へ医療保障を広げる基盤となりました。1941年には医療保護法も制定され、戦時下の医療救護体制が補強されました。
母子保護法、軍事扶助法、医療保護法は、戦後の旧生活保護法制定時(1946)に廃止され、一本化されています。
昭和前期の社会福祉は、震災・恐慌・不況への対応の中で公的救済を拡大しつつ、戦争の進行とともに戦時動員を支える制度へも組み込まれていった時代でした。
法制度の移り変わりを以下の表にまとめます。
| 前身 | 昭和(第二次世界大戦終戦まで) | 現在 |
|---|---|---|
| 恤救規則(1874) | 救護法(1929) | 生活保護法(1950) |
| – | 児童虐待防止法(1933) | 児童福祉法(1947) ※現行の児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)は2000年に新設 |
| 感化法(1900) 感化院 | 少年教護法(1933) 少年教護院 | 児童福祉法(1947) 児童自立支援施設 |
| 済世顧問制度(1917) 方面委員制度(1918) | 方面委員令(1936) | 民生委員法(1948) |
| – | 母子保護法(1937) | 生活保護法(1950) ※現行の母子及び父子並びに寡婦福祉法(2014)は新設 |
| 軍事救護法(1917) | 軍事扶助法(1937) | 生活保護法(1950) |
| – | 社会事業法(1938) | 社会福祉法(2000) |
| – | 国民健康保険法(1938) | 国民健康保険法(1958年全面改正) |
| – | 医療保護法(1941) | 生活保護法(1950) |
まとめ
保育士試験の対策として社会福祉の近代史を時系列で押さえるなら、まず明治では、産業化や貧困の広がりを背景に、1874年の恤救規則によって日本初の全国的な公的救済が始まります。ただし対象は「働けず、頼れる家族もいない人」に限られ、救済はまだ限定的でした。一方で、石井十次の岡山孤児院や石井亮一の滝乃川学園など、民間の慈善・保護事業が広がったことも重要です。
大正に入ると、第一次世界大戦による社会不安や1918年の米騒動を背景に、社会福祉は個人の慈善から行政的対応へ進みます。1917年の軍事救護法、岡山の済世顧問制度、1918年の方面委員制度は、困窮者を地域で把握し行政につなぐ仕組みとして発展し、のちの民生委員制度の基礎になりました。
昭和前期は、不況、関東大震災、金融恐慌、世界恐慌で生活困窮が深刻化し、1929年の救護法で公的救済が拡大します。さらに1933年には児童虐待防止法・少年教護法が成立し、子どもの保護も制度化されました。その後、日中戦争から第二次世界大戦へ進む中で、1937年の母子保護法・軍事扶助法、1938年の社会事業法・国民健康保険法、1941年の医療保護法などが整えられますが、これらは生活支援であると同時に戦時体制を支える性格も持っていました。つまり社会福祉は、明治の限定的救済から、大正の行政化、昭和の制度化、そして戦争下での再編へと進んだ流れで理解すると覚えやすいです。

