社会福祉の歴史のうち、古代から近世までを解説します。保育士試験では出題があまりない領域ですが、日本における社会福祉の流れを知る上では重要です。
- 古代の社会福祉
- 中世の社会福祉
- 近世の社会福祉
社会福祉とは
社会保障制度に関する勧告(50年勧告)によると、「社会福祉とは、国家扶助の適用をうけている者、身体障害者、児童、その他援護育成を要する者が、自立してその能力を発揮できるよう、必要な生活指導、更生補導、その他の援護育成を行うこと」とされています。
つまり社会福祉とは、何らかの理由で、自分だけでは自身の生活が維持できない場合に、国や地方自治体などが自立を支援していくことです。

日本における社会福祉の歴史
日本の時代区分は、以下の通りです。
| 時代区分 | 時代 |
|---|---|
| 古代 | おおむね国家形成から平安時代まで |
| 中世 | おおむね鎌倉〜室町・戦国時代まで |
| 近世 | 江戸時代 |
| 近代 | 幕末・明治維新以後から第二次世界大戦終結ごろまで |
| 現代 | 1945年以後〜現在 |
それぞれの時代区分に分け、日本の社会福祉の歴史をさかのぼっていきましょう。


古代の社会福祉
約1400年前の飛鳥時代には、聖徳太子によって日本の福祉の源流ともいわれる四箇院(しかいん)が創設されたと伝えられています。
四箇院(しかいん)とは、敬田院(きょうでんいん)・施薬院(せやくいん)・療病院(りょうびょういん)・悲田院(ひでんいん)の4つの院の総称です。四箇院では、生活困窮、病気、教育を切り離さずに、生活全体を支える施設です。
| 四箇院 | 役割 |
|---|---|
| 敬田院 | 仏教を学び、修行や教育を行う場 |
| 施薬院 | 薬を施し、病気の人を助ける場 |
| 療病院 | 病人を収容し、治療や看護を行う場 |
| 悲田院 | 貧しい人や身寄りのない人を保護する場 |
シンプルにすると、敬田院=教育、施薬院=施薬・医薬の提供、療病院=治療、悲田院=救護と考えることができます。現代の狭義の社会福祉にいちばん近いのは悲田院です。
時代は進み、奈良時代になると、どのような人に助けが必要なのかが定義されます。法典である養老令(ようろうりょう)の一部である戸令(こりょう)には、助けが必要な対象を以下のように定めています。
| 区分 | 対象者 | 現代の福祉との類似点 |
|---|---|---|
| 鰥(かん) | 高齢で、妻がいない男性 | 老人福祉 |
| 寡(か) | 高齢で、夫がいない女性 | 老人福祉 |
| 孤(こ) | 父を失った子ども | 児童福祉、母子・父子福祉 |
| 独(どく) | 高齢で、子どもがいない人 | 老人福祉 |
| 貧窮(びんぐう) | 生活に困っている人 | 生活困窮者福祉 |
| 老(ろう) | 高齢者 | 老人福祉 |
| 疾(しつ) | 病気や障害がある人 | 障害者福祉 |
養老令の戸令は、718年頃に元正天皇の時代、藤原不比等らによって養老律令の一編として制定され、757年に施行。
また戸令には、誰がどのように支えるかも示されており、まず家族や親族が扶養し、それが難しい場合は地域や地方行政が支えるという考え方が取られていました。
支え方としては、生活の世話、病人の保護、さらに高齢者や篤疾者への付き添いの給付などが含まれています。
中世の社会福祉
中世の社会福祉は、現代のように国が法律と税で全国一律に支える仕組みではありませんでした。
困窮した人を支える仕組みはあっても、それは「福祉制度」というより、共同体の中で支え合う仕組みや、仏教的な慈善活動として行われてました。
中世の社会福祉を理解するうえでは、次の3点を押さえると全体像がつかみやすくなります。
| 観点 | 内容 |
|---|---|
| 公的制度としての福祉 | 国家による全国一律の福祉制度は未成熟 |
| 主な担い手 | 寺社、村落共同体、地域の相互扶助組織 |
| 性格 | 権利としての保障ではなく、慈善・互助・共同体維持の色合いが強い |
この時代は、生活に困ったときに、まず行政に申請して支援を受けるという発想ではなく、自分の属する共同体の中で支えられるかどうかが非常に大きな意味を持っていました。
共同体にもさまざまあり、代表例を以下にまとめます。
| 用語 | 内容 | イメージ |
|---|---|---|
| 惣(そう) | 村の自治 | 村をみんなで運営する |
| 結(ゆい) | 労働の助け合い | 農作業をみんなで手伝う |
| 講 | 信仰をきっかけにした助け合い 経済的な助け合い | 仲間同士で支え合う 仲間同士で金銭を融通する |
共同体での支え合いに加え、中世の社会福祉で特に重要なのが、寺社による慈善・救済です。
この時代は仏教の影響が大きく、病人、貧しい人、孤児、行き倒れの人などへの施しが、宗教的実践として行われました。
なかでも、叡尊(えいそん)や忍性(にんしょう)に代表される僧侶は、病者や貧者、社会的弱者への救済活動で知られています。ここでの支援は、現代の公的福祉のような権利保障ではありませんが、中世社会においては非常に重要なセーフティネットでした。
つまり中世では、村落共同体や寺社・宗教者が、場面ごとに人々の生活を支えていたと整理できます。
近世の社会福祉
村人が生活に困ったときの支え手として、家族・親類、同族、五人組、村などが挙げられており、日々の生活を守る役割は、身近な共同体に強く支えられていました。
五人組とは、江戸時代に近隣の家どうしをまとめた連帯責任のしくみで、相互監督や治安維持、年貢納入の補助、助け合いなどを担いました。
中世までと同様に、共同体によるサポートが主体ではありましたが、幕府による公的な救済があった点が近世の社会福祉の特長です。例えば、幕府は大火や飢饉の際に救小屋を設けたり、救米・救金を与えたりしていました。
さらに江戸では、松平定信が定めた町会所の七分積金が、将来への備えや貧困者救済の費用に使われました。七分積金は、松平定信のもとで江戸の各町が、町費節約分の7割を積み立てた救済資金です。七分積金は江戸時代だけでなく、明治になると東京養育院の設立・運営にも使われました。
東京養育院は、困窮者・病者・孤児・老人・障害者などを広く保護した総合的な救済施設でした。
このように近世は、現代のように「福祉を受ける権利」が制度として保障された時代ではありませんでしたが、家族や地域による相互扶助を基盤としながら、公的救済へとつながる土台が少しずつ形づくられていった時代だったといえます。
こうした近世の救済のしくみや経験は、明治以後の恤救規則や救護法、戦後の生活保護法へとつながる日本の社会福祉の発展を考えるうえでも重要です。
まとめ
古代は四箇院や養老令にみられるように、支援対象や扶養の考え方が整理され、中世は寺社や村落共同体による慈善・互助が中心でした。
近世になると、五人組や村の支え合いに加え、幕府の救小屋、救米・救金、七分積金など公的救済の芽も見られます。近代以前の支援が「権利保障」ではなく、共同体や慈善を基盤に発展してきた点を理解することが重要です。

